ボリス・ゴドゥノフは、何をしたツァーリだったのか

この記事には定説が割れている事項が含まれます。該当箇所は本文中で示します。

ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』で、ボリスは幼い皇子を殺させた罪に苦しんでいる。玉座にあっても心が休まらず、皇子の幻におびえ、罪の意識を抱えたまま死んでいく。

実在のボリス・ゴドゥノフ(Борис Годунов)は、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、ロシアを実際に治めた人物である。皇子を殺させたのかどうかは、400年あまりたった今も決着していない。確かなのは、皇帝の家系の外から選ばれてツァーリ(皇帝)の座につき、その7年後、国が崩れはじめるさなかに死んだことである。

この記事の日付は、当時のロシアで使われていたユリウス暦で書く。今の暦に直すには10日を足す。

雷帝の時代のあとで

ボリスが生きたのは、イヴァン4世(Иван IV)の時代とその直後である。イヴァン4世は1547年にツァーリとして戴冠した最初の君主で、日本語では雷帝の名で知られる。歴史学では、このときからの国をロシア・ツァーリ国と呼んでいる。

雷帝の治世の後半は荒れていた。1565年、イヴァン4世は国を2つに分け、一方を自分が直接治める領域とした。オプリーチニナと呼ばれるこの制度のもとで、ツァーリ直属の親衛隊が大貴族を領地から追い、恐怖による支配を行った。制度は1572年に廃止されたが、そのあいだに大貴族の力は削がれ、国の経済も傷んだ。

1581年、後継ぎだった長男のイヴァンが死んだ。父と争った末だったと伝えられてきたが、これも研究者のあいだで見方が割れている。残った息子のフョードル(Фёдор)が後継ぎとなり、1584年に父が死ぬと、フョードル1世として即位した。

コストロマの家から、雷帝の宮廷へ

ゴドゥノフ家は、モスクワの北東にあるコストロマに根を持つ古い家系である。1555年に作られた君主の系譜書にも、古くからモスクワの君主に仕えてきた家として載っている。

この家には、もう1つ別の起源の話がある。14世紀に、当時モスクワなどの諸侯を従えていたモンゴル系の国家から、チェト(Чет)という貴人がモスクワに移って洗礼を受け、その子孫がゴドゥノフ家になったというものである。ただし研究者は、この話を16世紀の終わりより前にはさかのぼれない系譜伝承と見ている。ゴドゥノフ家を後ろ盾にしていたコストロマのイパーチー修道院で、家の格を高く見せるために作られたとする見方である。ボリスを「タタール系」とする解説は今も見かけるが、その根拠はこの伝承にある。

ボリスは1550年代の初めに生まれた。1551年とする説と1552年とする説がある。雷帝の宮廷に仕え、1571年、オプリーチニナの中心人物だったマリュータ・スクラートフ(Малюта Скуратов)の娘マリヤと結婚した。やがて妹のイリーナ(Ирина)が、雷帝の息子フョードルの妻になる。

この結婚が、ボリスの行く末を決めた。フョードルが即位すると、ボリスはツァーリの妃の兄になった。

ツァーリの義兄として

1584年5月31日、フョードル1世の戴冠の日に、ボリスは主馬頭(конюший)の位を与えられた。宮廷の馬を預かる役に由来する位で、大貴族の会議でいちばん上に立つことを意味した。

フョードル1世のまわりには、雷帝の時代からの大貴族たちがいた。ボリスはその中で競り合い、1580年代の後半には並ぶ者のない実力者になっていた。統治者(правитель)の称を帯び、外国の君主と直接手紙を交わし、外国の使節を自ら迎えた。玉座にいたのはフョードルだが、国を動かしていたのはボリスである。ボリスを「摂政」と呼ぶ解説もあるが、当時のロシアにその名の役職は無かった。

この時期に進められたことで、後の時代に残ったものが2つある。

1つは、モスクワ総主教座である。総主教は、正教会でいちばん高い位の主教を指す。1588年、コンスタンティノープル総主教のエレミアス2世(Иеремия II)が、寄付を募る旅の途中でモスクワを訪れた。ボリスが率いる政府はこの機会をとらえて、モスクワに総主教を置く交渉を進めた。1589年1月26日、モスクワ府主教のヨブ(Иов)が、クレムリンのウスペンスキー大聖堂で最初のモスクワ総主教の座についた。

なぜモスクワは総主教を求めたのか。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国の手に落ちてから、1世紀あまりがたっていた。同じ1589年に作られた、総主教座の設置を定めた文書は、コンスタンティノープル総主教がツァーリに語った言葉として、こう記している。古いローマは異端に倒れ、第2のローマであるコンスタンティノープルはトルコ人に支配されている。いまやロシアのツァーリの国が第3のローマであり、敬虔さですべての国にまさる。モスクワは自分たちを、正教世界の中心を受け継ぐ国と見ていた。

もう1つは、農民の移動を縛っていく法令である。当時、国の軍の中心は騎兵の士族で、国から与えられた領地を農民に耕させて暮らしを立てていた。雷帝の時代の長い戦争で国は疲弊し、多くの農民が領地を離れて南へ移っていった。農民がいなくなれば、士族は軍務を果たせない。1597年、逃げた農民を探し出して元の領主に戻せる期間を5年とする法令が出た。名義はフョードル1世だが、国を動かしていたのはボリスである。農民を土地に縛りつけていく長い流れの中で、この法令は一歩を進めた。

南の守りでも、ボリスは名を上げた。1591年の夏、クリミア・ハン国の軍がモスクワに攻め寄せたが、これを退けた。この功で、ボリスは「スルガ」(слуга)という、大貴族よりも上とされた古い称号を与えられている。

ウグリチの皇子

同じ1591年に、後々までボリスの名に影を落とす事件が起きた。

雷帝には、フョードルのほかにもう1人、幼い息子がいた。ドミトリー(Дмитрий)である。雷帝の6度目とも7度目ともいわれる結婚から生まれた子で、教会はこの結婚を正式なものと認めていなかった。ドミトリーは母とともに、モスクワの北、ヴォルガ川沿いの町ウグリチで暮らしていた。

1591年5月15日、ドミトリーはウグリチで、喉に刃物の傷を負って死んだ。

モスクワから調査団が送られた。率いたのは、有力な大貴族のヴァシーリー・シュイスキー(Василий Шуйский)である。調査団は、ドミトリーがナイフで遊んでいるときにてんかんの発作を起こし、自分を刺してしまった事故だと結論した。

ボリスが人を送って殺させたという話が、ロシアの文献に初めて現れるのは1606年である。書かれたのは、ボリスの死後に帝位についたシュイスキーの周辺だった。1591年に事故だと結論した調査団の長が、自ら帝位についたとき、あれはボリスによる殺害だったと公に宣言したことになる。同じ1606年、ドミトリーは聖人とされ、遺骸はウグリチからモスクワへ移された。

噂は、それより前からあった。1588年にモスクワを訪れたイングランドの使節ジャイルズ・フレッチャーは、1591年にロンドンで出した本の中で、この幼い皇子の命は、帝位をねらう者たちにおびやかされていると書いている。ただし、ボリスの名は挙げていない。

19世紀には、歴史家カラムジンをはじめ多くの歴史家が、ボリスによる殺害だと考えた。20世紀に入ると、プラトーノフやスクルィンニコフのように、事故とした調査団の結論を疑う根拠はないとする研究者が現れる。いまは事故とする見方に傾く研究者が多いが、決着はついていない。

選ばれたツァーリ

1598年1月7日、フョードル1世が後継ぎを残さずに死んだ。これで、モスクワの君主の家系が絶えた。

未亡人となったイリーナは、モスクワの新処女修道院に入って修道女となった。ボリスも同じ修道院にこもった。

2月17日、身分ごとの代表が集まる全国会議(Земский собор、ゼムスキー・ソボル)がモスクワで開かれ、ボリスをツァーリに選んだ。ボリスはすぐには受けなかった。会議の参加者は3度にわたって即位を求め、聖物を掲げた行列が修道院へ向かった。2月21日、ボリスはようやく受け入れた。自分から帝位を求めたのではなく、請われて受けたという形は、こうして整えられた。

戴冠は9月1日、クレムリンのウスペンスキー大聖堂で行われた。当時のロシアでは、9月1日が新年の始まりである。

ツァーリ・ボリスの7年

ボリスの治世には、目に見える形で今に残っているものがある。1600年、ボリスはクレムリンのイヴァン大帝の鐘楼を高く積み増し、金色のドームの下に、自分と息子フョードルの名を記した文字の帯を巡らせた。この文字の帯のことは、キリル文字の記事で書いた。

1602年には、4人の若者をイングランドへ送り、言葉を学ばせて通訳にしようとした。4人とも、ロシアには戻らなかった。同じ年、娘のクセニヤ(Ксения)を、デンマーク王の弟ヨハンと婚約させた。王子は婚礼を前にモスクワで病に倒れ、急死している。

この7年を暗転させたのは、天候だった。

大飢饉

1601年の夏、ロシアは霜に襲われ、作物が実らなかった。凶作は翌年も続き、1603年にかけて大飢饉となる。

原因の1つとして、南米ペルーのワイナプチナ山が1600年2月に起こした大噴火を挙げる研究がある。噴き上げられた火山灰とガスが日射をさえぎり、北半球の夏を冷やしたという見方で、2008年に発表された。木の年輪の記録では、1601年は過去600年で最も寒い年の1つだった。

死者の数は、資料によって大きく開いている。当時の修道士アヴラアミー・パリーツィン(Авраамий Палицын)は、モスクワだけで2年のあいだに12万7千人が死んだと書いた。国全体の死者については推計の開きが大きく、この記事では1つの数字に定めない。

ボリスの政府は手を打った。国の倉の穀物を安く売り出し、やがてモスクワなどの都市で、貧しい人々に穀物とお金を無償で配った。

ところが、施しは裏目にも出た。オランダの商人イサーク・マッサは、施しを求めて困窮した人々が首都に押し寄せ、モスクワの飢えをかえって深めたと書いている。

国の土台が揺らいだところに、死んだはずの皇子が帰ってくる。

死んだはずの皇子

1603年、ロシアの西隣のポーランド・リトアニア共和国に、1人の若者が現れた。自分は奇跡的に生き延びた皇子ドミトリーだと名乗った。その年の秋にはポーランドの大貴族が彼を本物と認め、1604年にはポーランド王も認めた。

ボリスの政府は、この男の正体を、モスクワのチュドフ修道院から逃げた修道士グリゴリー・オトレピエフ(Григорий Отрепьев)だと発表した。今日では偽ドミトリー1世と呼ばれるが、素性が政府の発表どおりだったかどうかは確定していない。

1604年10月、ドミトリーを名乗る男は、ポーランドとリトアニアの私兵を中心とする数千の兵を率いて国境を越えた。1605年1月21日のドブルィニチの戦いで政府軍に大敗し、兵の多くが彼のもとを去った。それでも、彼に従う町は残った。

その3か月後の4月13日、ボリスは死んだ。マッサの記録によれば、その日ボリスは機嫌よく食事をとり、食後に塔へ上った。下りてくると急に具合が悪くなり、鼻と耳から血を流した。総主教らを呼んで修道士としての剃髪を受け、間もなく息を引き取った。死因は分からない。追い詰められて毒をあおったのだという噂も、当時すでにあった。

ゴドゥノフ家の最期

ボリスの息子が、フョードル2世として即位した。

だが、流れはもう変わっていた。5月7日、クロームイの町を包囲していた政府軍の大半が、ドミトリーを名乗る男の側に寝返った。6月1日にはモスクワで蜂起が起き、フョードル2世と家族が捕らえられた。6月10日、フョードル2世と母マリヤは殺された。民衆には、2人が毒を飲んだと告げられた。

6月20日、ドミトリーを名乗る男は、戦うことなくモスクワに入った。7月21日には、クレムリンのウスペンスキー大聖堂でツァーリとして戴冠している。

ボリスの遺骸は、はじめクレムリンのアルハンゲリスキー大聖堂に葬られていた。しかし妻と息子の遺骸とともに墓から出され、モスクワの小さな修道院の、貧しい人々のための墓地に移された。1606年、シュイスキーの命で、3人の遺骸はモスクワの北東にあるトロイツェ・セルギエフ修道院に改めて葬られた。その墓所は今もそこにある。

ドミトリーを名乗る男の治世は、1年と続かなかった。1606年5月、シュイスキーらに殺され、シュイスキーがツァーリとなる。ロシアはこのあと、1613年に新しい王朝が立つまで、帝位を名乗る者と外国の軍と内乱が入り乱れる時代に入る。これを動乱時代(Смута、スムータ)と呼ぶ。その始まりをボリスの即位の年に置くか、偽ドミトリーの侵攻の年に置くかは、歴史家によって違う。

なぜ、罪に苦しむ皇帝になったのか

ボリスがドミトリーを殺させたという話を公式の見解にしたのは、1606年のシュイスキーの政府だった。1591年の調査団の長が、帝位についてからこの見解をとったことは、覚えておいてよい。

それから200年あまりのちの1824年、歴史家ニコライ・カラムジン(Николай Карамзин)が、『ロシア国家史』の第10巻と第11巻を出した。フョードル1世とボリスの時代を扱う巻である。カラムジンはボリスを、国を思う有能な為政者として描くと同時に、皇子を殺させた罪に良心を苛まれる人間として描いた。

この歴史書を読んで戯曲を書いたのが、詩人のアレクサンドル・プーシキン(Александр Пушкин)である。プーシキン自身、シェイクスピアとカラムジン、そして古い年代記を学んだことがこの劇の着想になったと書き、出来事の運びはカラムジンに従ったと述べている。戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』は、カラムジンの思い出に捧げられた。

さらに40年あまりのち、このプーシキンの戯曲をもとに、作曲家モデスト・ムソルグスキー(Модест Мусоргский)がオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を書いた。オペラのボリスが罪の意識に苦しむのは、この順に受け継がれてきたボリス像の上に立っているからである。

20世紀の歴史家セルゲイ・プラトーノフは、1921年の著書『ボリス・ゴドゥノフ』で、ボリスについての史料はいまもはっきりしない以上、その動機を確信をもって語ることも、人柄を誤りなく評価することもできない、と書いている。

舞台のボリスと史料の中のボリスのあいだにあるずれは、1606年のモスクワで始まり、1824年の歴史書と、その翌年に書き上げられた戯曲を経て、オペラに受け継がれた。

ロシア語の学習アプリ / キリル文字について