2021年8月、写真や動画を編集するアプリの会社 Picsart(ピクスアート)が、ソフトバンクの投資ファンドから1億3千万ドルを調達し、企業価値が10億ドルを超えた。10年前にエレバンで創業した会社で、アルメニアで生まれたスタートアップとして初めての「ユニコーン」(上場前に企業価値10億ドルを超えた会社)になった。
2026年8月には、エレバンの北にあるフラズダンで、AI 用の大規模なデータセンターが動き始めた。
エレバンの街に目を移すと、スマートフォンの決済アプリを開いた人が、表示言語をアルメニア語、ロシア語、英語から選んでいる。
小さな国のテックエコシステムは、何の上に立ち、何語で動いているのか。
ソ連はなぜアルメニアに計算機を任せたのか
ソ連の時代、アルメニアはコンピュータと電子機器の開発を担う地域の1つだった。なぜアルメニアだったのか。確かめられた資料からたどれるのは、先にあった科学の土台と、それを動かした人々である。
土台は、第二次世界大戦のさなかにできていた。1943年11月、アルメニア科学アカデミーが設立された。同じ年、物理学者のアリハノフとアリハニャンの兄弟がエレバン物理学研究所を開いている。1947年からは天体物理学者のヴィクトル・アンバルツミャンがアカデミーの総裁を務め、その任は1993年まで続いた。
1956年、ソ連共産党とソ連政府は、アルメニアに計算機や計測機器の研究所と工場を置くことを決めた。同じ年、エレバンに数学機械研究所が設立された。発案したのは、アンバルツミャンら3人の学者である。その1人のアンドロニク・ヨシフャンは、アルメニアの出身で、モスクワでミサイルや人工衛星の電気機器を扱う研究所を率いていた。エレバンの学者だけでなく、モスクワの中枢にいたアルメニア出身の技術者も、共和国に研究の拠点を置く側に立っていたことになる。
研究所の初代所長には、28歳の数学者セルゲイ・メルゲリャンが就いた。研究所は彼の名を取って「メルゲリャン研究所」と呼ばれ、ラズダンやナイリといったコンピュータを設計した。
どれほどの規模だったかについては、数字が定まらない。アルメニアの IT 業界団体の代表は2014年、ソ連の軍用電子機器の3分の1がアルメニアで設計・製造されていたと語っている。30%から40%とする資料もある。この時代のアルメニアを「ソ連のシリコンバレー」と呼ぶ人もいる。
1991年にソ連が解体すると、軍と宇宙のための発注は失われた。今のテック産業は、その空白のあとに育ったものである。
独立後の下地は、教育と税制
2011年、エレバンに TUMO(トゥモ)という学びの場が開いた。12歳から18歳までが、放課後に無料でプログラミングやゲーム制作、アニメーションを学ぶ。入学試験も学費もない。
税制では、2014年12月に成立し、2015年に施行された法律で、認定を受けた IT のスタートアップは法人税が免除され、従業員の所得税も10%に抑えられた。認定の受付は2022年で終わり、優遇は2023年末に期限を迎えた。2025年からは、登録した先端技術企業が売上の1%を納める別の仕組みを選べるようになっている。
いちばん身近なのは決済
暮らしの中でいちばん目に入る技術は、お金の払い方である。
エレバンのスーパーマーケットや銀行の入口には、公共料金や携帯電話の料金を現金で払い込む決済端末が並ぶ。Telcell(テルセル)という会社が、2007年にアルメニアで最初の、セルフサービス端末で支払いを受け付ける網を作った。現在は首都と各地方に5,000台を超える端末を置き、450を超える支払い先に払い込める。
アプリでは、Idram(イドラム)が2004年に始まり、2012年に電子マネー(前もって入金した残高で支払う仕組み)を発行する許可を得た。店頭で QR コードを読み取って払う使い方にも対応している。
制度の側では、アルメニア中央銀行が規制のサンドボックス(新しい金融サービスを、範囲と期間を限って試させる枠組み)を設け、オープンバンキング(銀行が持つ口座の情報を、利用者の同意のもとで他の事業者に渡す仕組み)などの試行を進めている。
デジタル決済がどこまで行き渡っているかを示す数字は、この記事では出していない。出典を確かめられる資料に当たれなかったためである。
画像、AI、暗号資産、量子
決済の外にも、名前の知られた会社と計画がある。
冒頭の Picsart は、2011年11月にエレバンで創業した。アルメニア系の2人が2007年にアメリカで創業した ServiceTitan(サービスタイタン)は、配管や空調の業者向けの業務ソフトの会社で、2024年12月にアメリカの Nasdaq に上場した。アルメニアにも拠点を置いている。国外に暮らすアルメニア系の人々(ディアスポラ)が、本国の外で作った会社である。
AI では、アメリカの新興企業 Firebird(ファイアバード)が、2025年6月にアルメニア政府、NVIDIA と組んでデータセンターを作ると発表した。官民で5億ドル規模の計画で、2026年8月にフラズダンで稼働した。同社は2027年末までに GPU(AI の計算に使う半導体)を7万基以上に増やす計画を掲げている。
暗号資産(ビットコインのような、ネットワーク上でやりとりされる資産)については、2025年7月4日に暗号資産法が施行された。暗号資産を扱う事業には、中央銀行の免許が要るようになった。
量子については、確かめられた範囲では、研究と人材育成の段階の話である。エレバン国立大学などと組んだ量子物理の修士課程「Quanta」が、2024年2月に最初の修了生を出した。2025年9月には、量子技術への光学の応用をテーマにしたアルメニアとドイツの国際セミナーがエレバンで開かれている。量子の分野で、アルメニアに産業として目立った会社があるとする資料には、当たれなかった。
エレバンに集まり、国外とつながる
テック産業の働き手の大半は、首都エレバンにいる。
地方に拠点を作る試みもある。北西部のギュムリには2014年、北部のヴァナゾルには2016年に技術センターが開いた。どちらも、2002年に世界銀行の事業として発足した支援機関 EIF(エンタープライズ・インキュベーター財団)が、政府、世界銀行とともに作ったものである。AI のデータセンターが置かれたフラズダンも、エレバンの外にある。
TUMO は国内6か所に拠点を持つ。エレバン、ギュムリ、ディリジャン、コグブ、カパン、エゲグナゾルである。これとは別に、輸送用コンテナを使った小さな拠点を各地の村に置いている。
国外とのつながりは、3つの方向に伸びている。
1つ目は、外国企業の開発拠点である。半導体の設計に使うソフトウェアを作るアメリカの Synopsys(シノプシス)は、2004年からアルメニアに拠点を置き、エレバンとギュムリで1,000人を超える人を雇っている。同社にとって、アメリカの外で最大級の拠点の1つである。
2つ目は、国外に暮らすアルメニア系の人々である。アメリカでは、ロサンゼルス近郊のグレンデールがアルメニア系の暮らしの中心とされる。2017年には、国外のアルメニア系の実業家らが、アルメニアの科学と技術の環境づくりを掲げる財団 FAST を立ち上げた。
3つ目は、アルメニアから外へ向かう流れである。TUMO はパリやベルリンなど国外にも拠点を広げ、2025年6月には日本の群馬県高崎市に、アジアで最初の拠点「TUMO Gunma」を開いた。エレバンで生まれた学びの仕組みを、日本の10代も使っている。
2022年、ロシアから人とお金が来た
アルメニアは2015年1月から、ロシアが主導するユーラシア経済連合に加盟している。ロシアとの経済のつながりは、もともと深い。
2022年2月にロシアがウクライナへ侵攻したあと、そのつながりは急に太くなった。Visa と Mastercard がロシアから撤退し、ロシアの銀行が発行したカードは国外で使えなくなった。国外で使えるカードを作るために、ロシアの人々が周辺の旧ソ連の国々へ出向くようになり、アルメニアの銀行でもカードの発行が増えた。
送金も跳ね上がった。アルメニア中央銀行の統計を伝える報道によれば、2022年にロシアからアルメニアへ送られたお金は36億ドルで、前年のおよそ4倍にあたる。
人も来た。ロシアから移ってきた IT 技術者の数は、資料によって1万5千人から5万人まで大きく開いており、この記事では1つの数字に定めない。その後、さらに別の国へ移った人がいることも報じられている。
2024年には、流れの一部が止まった。同年2月、アメリカ財務省がロシアの決済網「ミール」の運営会社を制裁の対象に加えた。これを受けてアルメニア銀行協会は、二次制裁(制裁の対象と取引した第三国の企業が、自らも制裁を受けること)のおそれがあるとして、3月30日から国内の銀行でミールのカードの取り扱いを止めると発表した。例外として残ったのは、ロシア資本の VTB アルメニアだけである。
それでも、2025年の時点で、アルメニアへの送金の最大の出どころはロシアのままである。
ロシア語、英語、そしてアルメニア語
アルメニアの国家語は、アルメニア語だけである。1993年の言語法はアルメニア語を国家語と定め、国の機関や企業、団体に、事務をアルメニア語で行うことを義務づけた。ロシア語に公的な地位はない。
一方で、ロシア語はソ連時代から続く第二言語として、今も国内で最も広く話されている。広告については、1996年の広告法が、外国語を添えてよいのはアルメニア語の文を主とし、より大きく、先に書く場合に限ると決めている。
だから決済アプリの画面には、3つの言語が並ぶ。たとえば Idram や Ameriabank(アメリアバンク)のアプリは、アルメニア語、ロシア語、英語に対応している。アルメニア語で暮らす人と、ロシア語や英語のほうが読みやすい人が、同じアプリで払う。
AI の分野では、アルメニア語そのものが課題になっている。大規模言語モデル(大量の文章から学習して文章を生成する AI)を育てるには、その言語で書かれた文章が大量に要る。アルメニア語は話者が少なく、学習に使える文章が乏しい言語として扱われている。
2025年、東アルメニア語に特化した大規模言語モデル HyGPT が公開された。作ったのは、アルメニア系の起業家が共同で創業したカザフスタンの会社 Gen2B で、アルメニアの国立人工知能技術センターと組み、アルメニア語の100億トークン(AI が文章を数える単位)で学習させた。誰でもダウンロードできる形で公開されている。
アルメニア語を扱う AI の出来は、アルメニア語で書かれた文章がどれだけあるかに左右される。文字ができてから1600年たった言語が、今度は機械に読ませるための文章を必要としている。